豊臣秀吉が生まれ育った名古屋 ─史上最大の出世人が愛した地─
名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅④
■秀吉、立身出世の夢への歩み
秀吉が信長に仕えた翌天文24年、信長は尾張守護代・織田信友を討ち、清洲城を本拠とするようになった。この清須において、秀吉は出世を重ね、普請奉行(ふしんぶぎょう)を命じられるまでになる。清洲城の塀が崩れたとき、秀吉は100間(約180m)の塀を10組に分け、作業を競わせることで完成させたとの逸話が残る。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにも、おそらくは参加していたとみられるが、当時の記録には残されていない。秀吉の活躍が記録されるようになるのは、永禄4年から本格的に進められた美濃攻めが最初である。秀吉は、主に濃尾国境に割拠する国衆を味方につけるような工作に従事していた。そして、稲葉山城主・斎藤龍興(さいとうたつおき)を孤立化させることによって、信長は斎藤龍興を追放し、美濃平定を成し遂げたのである。こののち、美濃平定に活躍した秀吉は、織田家の家臣として重用されていく。

墨俣城築城を信長に褒められる秀吉を描いた絵秀吉は墨俣に一夜城を築き、信長の美濃攻略の足掛かりとしたとされている。伝説とされているこの逸話だが、墨俣を押さえたことで周辺の国衆の調略を可能にしたことは間違いなく、このあとの秀吉の出世へもつながっている。
提供/『豊臣勲功記 木下須股城ヲ一夜ニ建築之図』古美術もりみや
上洛戦に従った秀吉は、畿内の平定にも功績があり、北近江の浅井長政(あざいながまさ)が滅亡したのちにはその遺領を与えられた。さらには中国平定を命じられるなど、重臣にまでのぼりつめたのである。
小者だった秀吉に、譜代の家臣がいるはずもない。そのため、右腕としたのが弟の秀長。父は秀吉と同じ弥右衛門とみられているが、秀吉の継父となった筑阿弥との説もあり、はっきりとしない。戦国時代には兄弟の対立が散見されるが、秀長は側近として兄秀吉をよく支えた。また、秀吉は姻戚にあたる福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)、妻の一族である木下家定(いえさだ)・勝俊(かつとし)父子なども家臣に登用したことで、秀吉の周囲は尾張出身者で固められることにもなったのである。

豊國神社秀吉の故郷である名古屋・中村の地の荒廃を憂い、明治時代に現在の知事にあたる県令であった国定廉平によって創建された、秀吉を祀る神社。現在も地元の人々から篤い信仰を受ける。